宇宙の小石

杉並太郎


 秋本明は電車に乗ってから足の下が気になりだした。足の下に石が挟まっている。右足の下だ。小さいけれど、尖った石である。電車は満員。靴を脱ぐどころか、屈むこともできない。
 とりあえず、左足に重心を移す。もちろん、そんなことでは解決にならない。電車は揺れるからである。それに、ふだんは気付かないが、片方の足にばかり体重を乗せていると疲れるものである。
 中吊り広告などを読んでいると、うっかり石のことを忘れて体重を移してしまう。ちょっとした痛みと、違和感。たいした痛みではない。気にしなければどうということはない程度の痛みである。それが却って癪に障る。
 何度か踏むうちに石の形が分かってきた。四角錐か五角錐の先端を斜めに切り落とした形である。大きさは底面の直径が一・五ミリくらいである。細いところでは〇・五ミリくらいだが、斜めになっている。
 この大きさにはかなりの自信がある。気持ちとしてはもっと大きい感じがするのだが、実際の大きさはこんなものだと思う。というのは、以前にやはり同じように、シャープペンシルの芯が靴の中に入ったことがあるからだ。
 〇・五ミリのシャープペンシルの芯と比較してこの大きさだと考えたのである。芯は円柱なので、足の下でコロコロとよく転がった。いま、足の下にある石はゴロゴロという感じである。
 芯を踏んだ時は今ほどは気にならなかった。丸いので痛くないからである。むしろ、足の下でコロコロと転がる感じが面白く、通勤の間の気晴らしになったくらいだ。
 それと比べるとこの石はチクチクと痛い。だいたい、足の裏には土踏まずという空間が空いているのに、どうしてそこに行かないのかと思う。ちょっと足首をひねって石が土踏まずの下に行くようにしてみる。
 すぐに足の下に戻ってしまう。やはり体重がかかっている部分がへこむからだろうか。いや、そもそも靴の中は土踏まずの部分が高くなっているのではないか。これは明らかに構造上の欠陥である。
 故意に高くしてあるのだから、欠陥というよりも陰謀である。だいたい靴というもの自体に陰謀の気配がする。サンダルなら、こんな小石など簡単に取れるのだ。もっとも、サンダルだと石が入りやすいけれど。
 秋本の会社では、出社した社員はみんなサンダルに履き替えている。水虫対策だけでは説明できない現象である。これはやはり、靴というものが非常に不快な履き物だからではないのか。
 サラリーマンがこんな不快な履き物を履かなければならないのは、サラリーマンという存在が現代の奴隷であり、靴は奴隷の足枷なのだと考えれば納得がいく。ネクタイは首輪である。
 そんなことを考えている間に、電車は次の駅に着き、押したり押されたりしているうちに何度も石を踏んでしまった。
 それにしても石は硬い。どうしてこうも硬いのか。米粒は踏んでもそんなに硬い感じはしないのに。もっとも、乾いた飯粒はかなり硬いけれど。それでも石ほどではない。米を踏むのは罰当たりであるが……。
 尖っているから硬いと感じるのかもしれない。硬くなければ、尖った形状を保つことはできないとも言える。いや待て、何か柔らかくて尖ったものを踏んだ記憶がある。
 そう、あれは爪だ。切った爪が飛んで、床に落ちたのを後で踏んだのだ。三日月型の尖ったところが足の裏に刺さりながらも、ばねのような弾力性も感じられた。爪自体は柔らかくないが、あの反り返った形が踏まれた力を吸収して柔らかい印象を与えたのだ。そう、あれもなかなか嫌な感じであった。
 思い返せば様々なものを踏んできた秋本であった。
 眼鏡のネジを踏んだこともある。眼鏡のつるを留めている頭のない小さなネジである。眼鏡のつるが緩むので、締め直そうと思ったのだが、その前に一度分解したいという気持ちを押さえることが出来ずに分解したら、案の定、ネジを落としてしまった。その時は、踏んだために見つけることが出来たのだ。
 転がる感じと同時に小さなネジ山のギザギザが足の裏を心地よく刺激したものである。普通のネジは頭があるので、ネジ山の印象よりも、ネジの頭のへりの印象が強い。
 ネジ山でも、日本のJIS規格のネジ山は細かくて良いのだが、アメリカのインチ規格のネジはネジ山が粗く、痛い。ほとんど、木ネジ並みのネジ山の粗さである。最近はそのインチネジが、秋本の部屋の床に散らばっているのである。というのは、アメリカ製のパソコンが置いてあり、それを分解したいという誘惑に耐えられなかったからだ。
 秋本の部屋にはポスターが一枚も貼ってない。壁にセロテープでポスターを貼ってもすぐにはがれてしまうし、秋本は画鋲が嫌いだからだ。なにしろ画鋲を踏むと本当に痛いのである。これは他のものの比ではない。その上、画鋲というものは上を向いた状態で落ちているものなのだ。
 画鋲以上に踏んで嫌なものは数少ない。その一つは眼鏡である。他人の眼鏡はそうでもないが、自分の眼鏡を踏むととても困る。運良く、レンズが割れなかったとしても、フレームが曲がってしまうからである。フレームの曲がった眼鏡はとても嫌なものである。
 接着剤も踏みたくないものである。特に畳の上では踏みたくない。フロッピィディスクやCD―ROMは結構平気なものである。
 しかし、無機物はまだいい。本当に踏みたくないのは生き物である。特に\bou{ある}生き物は二度と踏みたくないと思う。トイレのスリッパを履いた時にそいつを踏んでしまったのである。何か踏んだと思って足を浮かせた瞬間、そいつは内臓を引きずりながら、出て来ると、たちまち走り去ったのだ。踏んだ瞬間にどんな感じがしたかなど、恐ろしくてとても思い出せない。
 ようやく乗換駅に着いたので、秋本は靴を脱いで逆さまにした。何も出てこない。小さい石なので見落としたかと思い、靴を履くと、やはりまだ石がある。再び靴を脱いで、今度は足の裏に触ってみると、石がある。靴下の中に入っているのである。
 こんな所で靴下まで脱ぎだすと良識を疑われかねないと思い、秋本はあきらめて靴を履き、電車を乗り換えた。
 一体どうして、靴下の中に石が入ってくるのか? 秋本にはそれが分からない。何かの陰謀としか思えないのである。
 ひとつ考えられるのは、靴下を履く前から靴下に着いていたということである。靴下を洗濯した時に落として、そのまま干してしまうことがある。洗濯機がベランダにあるので、落とした時に石か何かが着くこともあるだろう。
 そうでないとすると、靴下を履く前から足の裏に着いていたということになる。この場合はおそらく石ではなくて、秋本の部屋の床に散らばるもろもろの小物体のどれかということになる。
 しかし、靴下を履いた時から中にあったとすれば、もっと早く気付いてよいはずである。秋本のアパートから駅までは五百メートルはある。時間的にも五分以上かかり、歩数は分からないが、その間に気付かないはずがない。
 とすると、考えられるのは何者かが秋本の靴下の中に小石を入れたということである。そんなことを考えるのは被害妄想のような気がする。周りを見渡してみると、いかにも怪しい人間ばかりである。
 スポーツ新聞のエロ小説を真面目な顔をして読んでいる男。くちゃくちゃと耳障りな音をたててガムを噛んでいる高校生。苦しみに絶えるようにぎゅっと目をつぶっている男。漫画のように口を開けて寝ている男。
 誰もかれもが演技過剰でわざとらしい。しかし、どういう動機で他人の靴下の中に石を入れたりするだろうか。ストレス解消にいたずらをしているのかもしれない。そんなことはないとは断定できない。
 よく考えたら、石が入っていたのは乗り換える前だから、周りの人間は関係ない。関係ないが、何か企んでいそうな怪しいやつばかりである。
 誰かが入れたのでないとすると、石が自分から入ったことになる。そうすると、やはり石ではなく、貝か亀のような生き物ということになる。こんなに小さな亀はいそうにないし、いてもこんな四角錐のような形はしていないだろう。
 巻き貝なら円錐形をしているから形としては近い。しかし、貝は海にいるものだし、淡水に住む貝もいるが、陸上に住むものは知らない。カタツムリは貝に似ているが、その殻はあまり丈夫ではない。
 貝にしても亀にしてカタツムリにしても、素早く動けるとは思えない。特に陸上ではかなりゆっくりしか動けないだろう。そんなものが秋本に気付かれずに靴下の中に忍び込めるとは思えない。
 そうすると残る可能性は一つしかない。UFOである。
 秋本はかねがね特定の人にしかUFOが見えないのはおかしいと思っていた。特殊な才能を持った人間にしか見えないなら、それは幽霊や鬼神の類ではないか。UFOは誰にでも見えるのだが、多くの人はそれをみてもUFOだと気付かないのだ。そう考えると納得できる。
 様々な形をしたUFOが報告されているのだから、小石の形をしたUFOがいてもおかしくはない。UFOの大きさも様々で、かなり小さいものも報告されている。本当はもっと小さいUFOもいるのだが、小さいものほど発見されにくいのだろう。
 宇宙は広いのだから、何が存在してもおかしくない。人間のような脊椎動物だと考えると、宇宙人の大きさも限定されるけれど、カンブリア紀の生物を見れば、地球上でも様々な生き物がいた事が分かる。まして、宇宙ならどんな生き物がいるか分からないのである。
 宇宙人が他の星を探索しようと思ったら、非常に多数の探検隊を送り出さないと成果は望めない。宇宙はとても広いからである。その場合、一つ一つの探査艇なりUFOなりは小さい方がいい。
 およそ知的生物たるもの偶然などは当てにしないものである。宇宙探検を試みる生物は何兆、何京、何垓という数のUFOを宇宙に送り出しているはずである。そうして初めて、その中の一台が地球に辿り着くのであろう。
 それにUFOが飛んでいるのもおかしい。およそ知的生物たるものエネルギーを節約しないことなどあり得ないのである。宇宙空間はともかくとして、目的の惑星に到着したなら、転がったり、風に乗ったり、土地の生物に付着したりして移動する方が、エネルギーの節約になってよいのである。
 そう考えると、人の靴下の中にもぐりこんで移動するというのはいかにもUFOらしい移動方法である。
 UFOは超光速移動ができるという説もある。いかにももっともな説である。光より遅い速度では宇宙探検には時間がかかって仕方がない。しかし、超光速移動ができるなら、この宇宙から来た可能性だけでなく、他の宇宙から来た可能性もある。
 ビッグバンから始まったこの一つの宇宙ではなく、別のビッグバンか何かを起源とする別の宇宙である。そういう宇宙はきっと数えられる数より多く存在しているに違いない。
 この宇宙を規定する物理定数がいくつかある。光速度やプランク定数などである。その値が違えば別の宇宙になる。物理定数は連続量、つまり実数だから宇宙は少なくとも実数の数と同じくらいはあることになる。
 そういう別の宇宙から来た生物とコミュニケーションできれば、物理学は大きく発展するだろう。
 しかし、コミュニケーションは難しい。この宇宙だけでも宇宙は広く、生物は多様性に富んでいる。
 秋本の靴下の中の小石の形をしたUFOに乗っている宇宙人ともコミュニケーションは出来そうにない。そしてコミュニケーションができない以上はUFOだろうと小石だろうと大した違いはないのである。
 秋本は会社に着くと靴下を裏返して、中に入っていたUFOを捨てた。
 UFOは独自の価値観に基づいて独自の調査を続けているに違いない。
おわり

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