ひとつの願い

杉並太郎



 部屋にはろうそくが灯っていた。スーパーの雑貨コーナーで売っているパラフィンのろうそくだ。線香とならんで置いてある飾り気のないろうそくである。
 ろうそくは全部で五本。机の上に一本。電子レンジの上に一本。テレビの上に一本。本棚の三段めに一本。床の上に一本。
 折ったアルミホイルで小皿が作ってあり、ろうそくはその上に立てられていた。アルミホイルの下から刺した画鋲で留めてある。
 ろうそくはどれもカッターナイフで半分に切ってある。長いままだと倒れることを心配して切ったのだ。
 床にはダビデの星。白の絶縁用ビニールテープで描かれている。賃貸のアパートを出る時に、敷金を取り戻そうと考えているのだ。電気工事用のビニールテープははがれやすく、糊が残らない。
 ビニールテープで描かれた六芒星は形がゆがんでいる。そのゆがみを床に這うようにして直している男がいる。この部屋の住人、藤沢すすむである。
 藤沢は二十代後半の痩せた背の低い男である。眼鏡を掛けている。ずいぶん前に流行した銀縁の眼鏡である。フレームがゆがんでいるのか、顔の形が悪いのか、眼鏡は鼻の上で斜めになっている。鼻は作り物のように大きい。
 藤沢はマンガを参考にしながら魔法陣をビニールテープで描いていた。正確に真似しようと次のページを見てみると、そこでは六芒星が五芒星になっていた。藤沢はしばらく当惑してから、正三角形をふたつ重ねた六芒星の方が描きやすいと判断した。
 魔法陣の周りに書いてある文字はビニールテープでは無理だ。マンガにあるとおりの怪しい文字を紙に書いて床の上に置く。それも和紙に筆ペンで書いた。下手な字だが藤沢なりに念を込めて書いたものだ。
 真夜中が近づいている。
 藤沢は日曜大工の店で買ってきた鏡を買い物袋から取り出した。飾りのない四角い鏡で、上の端に紐を通す穴がふたつあいている。藤沢はその穴に麻紐を通した。古新聞を束ねるのに使っている紐である。
 鏡はふたつ買った。一枚を西向きの窓のカーテンレールから吊るし、もう一枚を、反対側、部屋の入り口の鴨居から吊るした。揺れる鏡の中に藤沢の顔と頭が交互に映る。あまり見たくない顔だ。
 窪んだ目は既に亡霊のよう。右の肩が上がっていて、左の肩が下がっているところは、壊れた操り人形のようだ。藤沢はほとんど生きる気力をなくしていた。
 鏡の中ではろうそくが妖しく光っていた。魔法陣の出来はよくなかったが、合わせ鏡とろうそくの効果は大きく、それだけでも、邪悪な雰囲気が出来はじめていた。
 机の上のパソコンのスイッチを入れ、RPGソフトを起動した。精緻に描かれた魔法陣が画面いっぱいに表示される。音は消してある。
 レンタルのビデオをデッキに入れる。悪魔もののホラービデオである。音を消すためにイヤホンを差し込んでからテレビを付ける。画面に邪悪な映像が流れはじめた。
 藤沢はビデオデッキの時計を見た。十二時にはまだ少し時間がある。
 グレイの上着のポケットから駅前で貰ったティッシュを取り出す。
「あなたの願いをかなえます。悪魔の宅配サービス」
 性風俗のティッシュのようだが、電話番号の代わりに呪文が書いてある。人込みの中で意識せずに受け取ったので、部屋に着くまでは見もしなかった。どんな奴から受け取ったのかも分からない。男だったのか、女だったのか。
 鏡を買いに行ったその帰りのことだから、それも混ぜてしまおうと考えた。悪魔を呼び出す正式の方法など藤沢は知らない。いろいろな方法が混じっていた方が邪悪な感じがする。
 十二時ちょうどに藤沢は呪文を唱えた。

 その悪魔は下級職、外回りの御用聞きである。人間界を飛び回り、邪悪な願いを叶えて徳を下げ、悪を広めること。それが外回りの悪魔の仕事である。願いを叶える代償として、人間の魂を奪う。
 しかし最近は悪魔に願い事をする人間が減っている。邪悪な願望を叶えるには金さえあればよいからだ。人間社会が堕落するにつれて、悪魔の需要は減っている。
 その上、魂の質が低下している。悪魔が手に入れたい魂は、死んだら天国に行くような高潔な魂である。ちかごろ、そういう魂を持った人間がいない。
 上級職たちはそういう情勢の変化を分かっていない。最終戦争までに少しでも多くの魂を集めろと厳しいノルマを課してくる。最終戦争は間近に迫っているというのだ。
 やたらに飛び回っても、欲望を持った人間は見つからない。人間のセールスマンや、宗教家の方がずっとうまくやっている。新興宗教の方は上級職悪魔の管轄だから、手を出せない。
 人間の姿で走り回り、疲れた悪魔が駅の階段に腰を降ろそうとすると、スッとティッシュを差し出された。見ると「夢、かないます」と書かれていた。消費者金融の広告であった。
 悪魔はこれだと思い、翌日からせっせとティッシュを配りはじめた。森林破壊にも役立つので一石二鳥である。
 そして今日、藤沢にティッシュを手渡した時、この男だと感じるものがあった。そして藤沢の跡をつけて、部屋まで来ていた。悪魔は姿を消して、さきほどからずっと藤沢の行動を見ていた。
 藤沢がティッシュに書かれた呪文を唱えると、悪魔は煙とともに姿を現した。

 角が生えている。それが藤沢の第一印象である。
 悪魔の額の両側、こめかみのあたりから伸ばしすぎたばねのようにねじれた角が生えていた。角は青灰色で濃淡があり、細かい網目模様になっている。生え際の皮膚は歯茎のように盛り上がって角の基部を包んでいる。
 顔は青白い。死人の肌の色を連想させる。けれども肌には張りがあり、エネルギーに満ちている。背は高く、藤沢より頭ひとつぶん高いところから見下ろしている。
 髪の毛は軽く縮れていて、濡れているような光り方をしている。眉は太く濃い。一番外側の毛が二、三本長く空中に突き出している。
 目は赤い。瞳が赤く、周りの白目も血管がふくれて赤い筋をつくっている。そして右の瞳は瞳孔が大きく開いているのに、左の瞳は瞳孔が小さく閉じている。
 悪魔はその目で、藤沢を睨み付けた。
「願いは何だ。言ってみろ」
 悪魔の声は低く響いた。
 藤沢は言おうと思っていた言葉を忘れた。悪魔が魔法陣の中に入っていないことにも気付かなかった。本来、魔法陣は呼び出した悪魔をその中に閉じ込めておくためのものである。藤沢はそんなことも知らない。生半可な知識で悪魔を呼び出そうとしたのだ。
 藤沢は悪魔の声を聞くと、ひとつだけどうしても言わなければならないことができた。おそるおそる小さな声で口にする。
「すみません、もう少し小さな声で話してくれませんか? ここ、壁が薄いんです」
「それがおまえの願いか?」
 外回りの悪魔は脅すように言ったものの、小声では迫力がでない。せっかく、悪魔らしい演出をしようとしたのに、はぐらかされてしまった。宙に浮いていた体を床の上に降ろす。降りたところは、窓と机に挟まれた部屋の隅、魔法陣の外である。魔法陣はでたらめなものだが、その中に降りるのは気がすすまなかったからだ。
 藤沢は悪魔が小声になってくれたので安心した。隣の部屋の住人はなによりも恐ろしい。
 余裕を持ってみると、悪魔の背丈は藤沢とあまり変わらない。ということは、一六五センチくらいか、人間の平均と比べても背が高いとは言えない。
 その姿も角を除けば、恐ろしくはない。鼻は筋が通って高い。髭も剃り跡もない口もとは女性的である。唇は青く薄い。一瞬だけ見えた歯は、テレビタレントのように白かった。
 肩はなで肩である。天使は両性具有だというが、悪魔もそうなのだろうか?
 そんなことを考えながら藤沢は答えた。
「いや、違います。このアパートは壁が薄いんですよ。隣の部屋の奴に文句を言われるんですよ」
「そいつを殺して欲しいのか?」
「えーと、それもいいかも知れないけれど、二番目の願いに回したいな」
「ちょっと待て、お前の魂を査定するからな」
 悪魔はそう言うと腰に吊った袋から、眼鏡のようなものを取り出して鼻にかけた。身に纏っているギリシャ風のローブにはポケットというものがないらしい。腰にいくつか袋を吊るしている。
 眼鏡を掛ける時に髪の間から尖った長い耳がはっきりと見えた。
「うーん、かなり汚れてますね。これですと、簡単な願いひとつというところですかね」
 悪魔はさっきまでとは違う口調で言った。眼鏡をかけたので、口調が変わったらしい。
 汚れているということについては、思い当たる点がないわけでもない。しかし、相手は悪魔である。
「いい加減なことを言うなよ。どこが汚れているっていうんだ」
「いいでしょう。お見せしましょう」
 悪魔はそう言うと、指示棒を出して窓に吊るした鏡を指した。指示棒は小動物の骨のように見えた。棒を握る悪魔の指は細く、マニキュアなのか、それが悪魔には自然な色なのか、黒く光る爪が伸びていた。
 鏡は部屋の中を映すことを止めて、藤沢の過去の一覧表を映し出した。そこには藤沢が忘れてしまった些細な悪事から、今でも夢に見てはうなされる出来事までが一覧にされていた。
 藤沢は目をそむけた。
 ピシッ。
 悪魔が指示棒で鏡を打つと、藤沢の視線は強制的に指示棒の先に向けられた。
「特にこれが大きいですね。これさえなければ、もうひとつくらい願いを叶えることができるんですがね」
 悪魔が指し示していたのは、藤沢が小学生の時の出来事である。
「もう止めてください」
「わかりましたね。あなたの願い事はひとつだけです」
「わかった。ひとつでいい」
 外回りの悪魔は眼鏡をはずし、指示棒と一緒に腰の袋に入れた。
「さあ、願い事を言うがいい」
 藤沢は悪魔が眼鏡を外すのを見て安心した。
「妹の病気を治してください」
「馬鹿なことを言うもんじゃない。そんなことは神に頼め」
「頼みましたよ。神社にお寺、教会で祈りもした。それなのに何の効き目もない」
 天使にはノルマがないからなぁ。悪魔は天使をうらやましく思った。
「お前の魂は汚れているからな。祈りはなかなか通じないだろう」
「それじゃあ、お願いしますよ。妹の病気」
「だめだ、だめだ。悪魔が病気なんか治せるか。今時、不治の病もないだろう」
「重症の再生不良性貧血。HLAが一致しなかった。兄妹(きょうだい)なら確率が高いと聞いていたのに。骨髄バンクにも一致するものがないんだ」
「まあ、妹さんのことはあきらめて、楽しい人生を送りなさい。金なら出してやるから」
「いい妹なんだ。何度か恋人の代わりもしてくれた」
「すぐに楽にしてやることなら出来るが、どうだ?」
「とんでもない。週末には見舞いに行くことになっているんだ。どんな顔を見せたらいいのか」
「お前の方を殺してやろうか」
 悪魔の言い方にふざけた感じはなかった。本気で言っているらしい。藤沢はしばらく考えてから願いを言った。
「嘘をつけるようにしてくれ。妹はおれのことを何でも知っていて、嘘をついてもすぐに分かってしまうんだ。この前までは、骨髄移植の可能性があったから、希望的なことを言えたけれど……。今度会ったらなんて言ったらいいか……。妹にも誰にも絶対にわからない嘘がつけるようにしてくれ」
「いいだろう」
 嘘なら邪悪な行為だから、悪魔の領分だ。金や宝石を出せという願いよりはずいぶん楽である。物質を出現させるには大きなエネルギーが必要だが、人の心を操るにはほとんどエネルギーを必要としない。
 しかし、魂と引き換えに嘘とはつまらない願いをするものだ。そう思いながらも悪魔は山羊皮の紙を取り出した。羊は神の忠実なしもべを意味するから、悪魔は山羊の皮を使う。
「これは悪魔と人間との契約である。人間は次のものを手に入れる。誰にも見破ることの出来ない嘘をつく能力。いいな」
 悪魔は空中に浮かべた紙にそう言いながら羽根ペンで書き付けていく。器用なものだと、藤沢は感心した。
「はあ」
「悪魔は次のものを手に入れる。人間の魂。いいな」
「ちょっと待ってくれ。魂を取るのはいつなんだ。死んでからじゃないのか」
 藤沢はあわてて聞いた。魂と交換と言っても、すぐに魂を取られたらどんな望みだろうと無意味ではないか。
「もちろん、死んでからだ」
 悪魔はそう言ったが、少し残念そうだ。
「悪魔は次のものを手に入れる。人間の魂。ただし、人間の死後、魂が肉体を離れてからとする。これでいいか」
「はあ」
「よし、じゃあここにサインしろ」
 そう言うと、悪魔は羽根ペンを藤沢の耳に突っ込んだ。
「な、なな、な」
 悪魔は藤沢の反応を楽しんだ。これはいつやっても面白い。
「血の方がいいのか。とにかく、契約にはおまえの体から出たものが必要だ。耳垢が一番無難だと思うが……」
 悪魔は藤沢の耳の穴から羽根ペンを出して、藤沢に渡した。
 納得できないままに、藤沢は耳垢のついた羽根ペンを受け取り、こちら向きに空中に浮かべられた紙に名前を書いた。羽根ペンには耳垢がついているだけなのに、黒い字が書かれていくのは不思議である。
 サインを終えると、藤沢は悪魔に羽根ペンを返した。その時に、手が触れる。悪魔の手は冷たい。洗い物をした後の母の手がこんな冷たさだった。昔は温水器がなかったから。
「それでは能力を授けるぞ」
 悪魔は指示棒を出して、その先で藤沢の額に触れた。
 藤沢がより目になって指示棒を見つめていると、嫌な感じがしてその棒が頭の中に入ってきた。棒はどんどん頭の中に入ってきて、とうとう棒を持っている悪魔の指が藤沢の額に触れた。触れたところから熱いものが広がって、藤沢は頭が燃えるような苦痛を感じた。
「熱い」
 藤沢は声を漏らした。
 今度は額から冷気が伝わってきた。心地よい冷たさだ。たちまち熱を奪っていく。
「おい、済んだぞ」
 藤沢が目を開けると、悪魔が額に手を当てていた。
「じゃあな。また、会う日を楽しみにしているぞ」
「次に? いつ?」
 藤沢はまだ頭がぼーっとしていた。いつまたこの悪魔と会えるのだろう。
「おまえが死ぬ時さ」
 悪魔は後ろを向くと、空中に二、三段駆け上がり、カーテンをくぐるように頭から消えていった。最後にひづめのある脚が消えた。二つに分かれたひづめはきれいに切り揃えられていた。
 悪魔が立ち去ると藤沢は蛍光燈を点けてろうそくの灯を消した。


 幸子(さちこ)はひとりで病室にいた。
 個室である。冷蔵庫とテレビが付いている。窓の下には花瓶があるが、花はない。しおれかけていたので、さっき看護婦さんが捨ててしまった。
 一人部屋になってみると、幸子は大部屋がなつかしくなった。こちらが疲れている時でもお構いなしにぺちゃくちゃと話しかけてきた大木さんや、その見舞い客の加藤さん。
 テレビは十四型で、壁から張り出した棚に乗っている。幸子はリモコンのスイッチを入れた。が、毎日楽しみにしているお昼の対話番組をやっていない。
 窓の上にかかった時計を見てみると、その番組の時間だ。不審に思いながらも、テレビを見ていると、今日が土曜日だと気付いた。
 入院して間もない頃は、土日は誰かが見舞いに来ていた。お母さんもずっと付き添っていてくれた。あの時は田舎に近い病院に入っていたし、完全看護でもなかったから。
 大学病院に移ってから、見舞い客が減ったような気がする。完全看護になって、付き添いはいらなくなってしまった。大部屋には空きがなくて個室になった。
 初めは個室がうれしかった。看護婦さんの腕も上がり、注射が痛いということもなくなった。その上、担当医は若い。
 もっとも、すぐに大部屋に移れるはずだ。幸子の家はそんなにお金持ちではないのだから。
 幸子はつまらないと思いながらもテレビを見続けた。
 ドアにノックの音がした。

 藤沢すすむは病室に入るとすぐにドアを閉めた。ベッドの上に上半身を起こした幸子がこちらを見て微笑む。頼りない微笑だ。パジャマ姿なのに色気がない。
 ベッドの側まで静かに歩く。
「やあ」
 藤沢は軽く手を挙げた。
「来てくれたんだ」
 幸子は椅子を指差した。
 藤沢は一度椅子に座ってから、また立ち上がり、果物の詰め合わせを幸子に見せた。
「これ、食べる?」
「今はいい」
 幸子はあまり食欲がない。食事だけはなんとか詰め込むようにしているけれど、それ以上にはなかなか食べられない。それよりは花が欲しかった。けれど、お兄ちゃんに花を期待するのは無理がある。花を持ったお兄ちゃんの姿はちょっと想像できないから。
 藤沢は椅子に座って幸子の顔を見た。髪は短くしている。幸子は入院する前は、会う度に違う髪型をしていたけれど、短くするのは子供時代以来のことだ。この方が似合っていると思う。
 子供の頃と違うのは顔色である。幸子は藤沢と違い活発だったから、いつも日焼けして黒い顔をしていた。大人になってもバイクを乗りまわしていたから、それが幸子の顔色だとずっと思っていた。その顔がいまは白い。デッサンに使う石膏像のように白い。
「具合はどう?」
 こんなことを聞くとまずい話題になるかも知れないとは思いながらも、他に話の種がない。
「今はちょっと落ち着いてる。なにかするとすぐ疲れちゃうんだけど、それ以外は特に悪くはないよ」
 幸子はこの機会にお兄ちゃんに病名を聞く事にしようと思った。
 前の病院で検査ばかりしていた頃や、大学病院に移ったばかりの時は、まだどういう病気か分からないという説明も納得できた。
 けれども、もう病名が分かってもいい頃だ。病名が分かっていて隠しているのだとすると、悪い病気ということになる。そう思うとすごく不安になる。悪い病気でも、どの病気かはっきりした方が気が楽になるのに……。今日はなんとしてもお兄ちゃんから病名を聞き出してやるから。
「お兄ちゃん、手を出して」
 藤沢は黙って手を差し出した。病室というところは男女が手を握っていても不自然ではない場所だ。それが兄妹(きょうだい)であっても。
「ほら、子供の頃、あたし、夜トイレに行けなくて、お兄ちゃんに付いて来てもらって、ずっと手を握っててもらったこと、あったでしょ」
「そんなこともあったね」
「お兄ちゃんの手を握ってると安心する」
 幸子の手はほんのり暖かい。そして柔らかい。バイクに乗っていた頃はもっと荒れた手をしていた。今はただ柔らかく、その力も弱い。強く握りかえすと壊れてしまいそうで、藤沢はあまり力を込められなかった。
「あたし、天国に行けるかな」
「行けるさ、百年もすれば」
「それじゃ、おばあちゃんだね」
「百歳程度じゃ、まだまだだね。俺は五百年は死なないから」
 お兄ちゃんらしいなぁ。幸子は微笑んだ。でも、今日はどうしてもちゃんと聞かなきゃ。幸子はお兄ちゃんの手を胸元に引き付けた。
「ねえ、あたしの病気は何? なんて言う病気?」
「名前はまだない」
 藤沢はなんとかそう言った。すらすら嘘が出てくるかと思っていたのに、そうはいかなかった。ここに来るまでもなんて言おうかずっと考えていたのに、適当な話は思いつかなかった。
 だが、一言口にすると、言葉が次々とあふれ出してきた。
「新しい病気だそうだ。でもたいした病気じゃないんだ。倦怠感があって疲れやすくなるけど。それ以外はたいしたことないんだ。ここの先生が新しい病気の発見者として報告書を書きたいから、しばらく入院させてくれってさ。おまえ、退院するとすぐバイクに乗るからな。運転中に、ふっと疲れて事故でも起こすと大変だから、入院させておくことにしたんだよ」
「ほんとう? 変な病気じゃない?」
「ぜんぜん。変な病気って言うと、いぼ痔とか、水虫とか、そういうのか? 自分でわかるだろ」
「もう。そうじゃなくて、感染しない?」
「しない、しない。ぜんぜんしない。ウィルスも細菌も検出されてないんだ。ただ、体の仕組みがちょっと故障して、疲労物質が大量生産されているそうなんだよ。おまえの病気を調べることによって、疲労の仕組みが詳しくわかるようになるって言ってた」
「ほんとう? どうして教えてくれなかったのよ」
 幸子はふくれた顔をして見せる。
「最初は本当に何も分からなかったし、分かってからは、先生がどうしても発見者になりたいから、報告書を学会に発表するまでは黙っていてくれっていうんだ。だけど、ほら、おまえは口が軽いから。自分の病気が新しい病気だなんてわかったら、言いふらすだろ」
「もう。そんなに口、軽くないもん」
「じゃあ、誰にも言わないでくれよ」
「うん。言わないよ」
 幸子は安心した。すると今度はお兄ちゃんのことが心配になってきた。今日も折り目の消えたズボンに皺のよったシャツなんか着ている。
「お兄ちゃん。恋人できた?」
 藤沢はまたかと思う。
「い、いや、それは……」
「ダメだよ。もっとファッションに気を使わなくちゃ。素材は悪くても、服で結構ごまかせるんだからね。お兄ちゃんにだって、いいところはあるんだから。外見にもっと気を遣えば、彼女だってできるよ」
「いいんだよ。結婚する気はないから」
「結婚しなくてもいいじゃない。女の子なんて、遊んで捨てちゃえばいいんだよ」
「おまえが言うことじゃないだろ」
「ふふ、お兄ちゃんなら許す」
 幸子は藤沢の手を顔の前まで持ち上げた。
「ね、感染しないって言ったよね」
 そう言って、藤沢の手に唇を押し付けた。
「あたし、すごく不安だったの。悪い病気じゃないかって。でも、お兄ちゃんに本当のことを教えてもらったから、安心したんだ。ダメだよ、たいした病気じゃなくたって、病人はすごく不安なんだからね。本当のことを教えてもらうのが一番なんだよ。だから、お兄ちゃんには感謝してるんだ」
 藤沢はどう答えていいか分からず黙っていた。
 幸子は藤沢の手をたぐりよせた。
「目、つむって」
 幸子は藤沢にキスした。
「ダメだよ。キスくらいで驚いちゃ。お兄ちゃん、キスへただから、もっと練習しないとね。幸子が練習台になってあげるから。ハイ、今度はお兄ちゃんからキスして」
 藤沢は幸子にキスした。何度もキスした。長いキスをした。
「お兄ちゃん、餓えてたんだね。でも、幸子、もう疲れちゃったみたい。続きはあとでね」
「ごめん」
「ううん。今日はありがとう。ちょっと眠るね」
 幸子が横になると、藤沢は静かに病室を出た。


 コスモ・アドのクリエイティブ・デザイン・セクションは、林ビルの三階にある。
 三階の大半は三人用から二十人用までのミーティング・スペースである。パーティションで区切られたそれぞれの区画には大型のエア・クリーナが設置されている。
 パーティションは少しでも頭脳を活性化させようというスタッフの願いを込めて、ライト・グリーンが選ばれている。その色もたばこの煙でくすんでいる。
 北村春夫はひとり、ミーティング・スペースでたばこを吸っていた。九時五分前だが、他のスタッフは出社していない。自席は禁煙なので、ミーティング・スペースに書類を広げて、たばこを吸いながら仕事をしている。
 北村は昨日、クライアントに怒鳴られた。北村が企画し、放映中のCFに差別的だというクレームが付いたのだ。もちろん、クライアントの了解を取ったCFだが、クレームが付いた時に責められるのは北村たちである。
 それはスポーツドリンクのCFで基本的には肉体賛美的な内容になっている。きわどいギャグも入っているが、社内の自主規制にも、放送局の規制にもひっかかっていない。そのCFが病人や身体障害者に対する差別だというファックスがクライアント企業と放送局に送られて来たのだ。ファックスは延々と三十枚もあった。
 クレームが付くことは絶対に避けなければならないが、低予算で注目を集めるにはきわどくならざるを得ない。まあ、やっちまったことは仕方がない。今は善後策を考える時だ。
 昨日遅くまでやけ酒を飲んでいたので、頭が冴えて仕方がない。北村は二日酔いを起こさない、その代わりに頭が冴え渡るという特異体質である。この体質のおかげでずいぶん得をしていると思う。
 クレームのついたCFの代わりにすぐに新しいCFを流せれば、失点はかなり回復できる。緊急に低予算で信頼を回復できるCFの企画をたてなければならない。いくら頭が冴えているとはいえ、これは簡単なことではない。
 十時をまわると何人かスタッフが出社してきた。

 藤沢すすむは見舞の後、どうしても幸子を助けたくなった。安心感を与えるだけではなくて、病気を治してやりたいと思った。そして、その可能性があることに気付いた。
 骨髄移植をすれば、幸子が助かる可能性はかなりあるのだ。そのためには、骨髄バンクへの登録が増えればいい。マスコミを動かす必要がある。悪魔に与えられた能力が強力なものなら、マスコミくらい動かせるのではないだろうか。
 しかし、能力は嘘をつくというものであり、幸子には違う説明をしてある。ニュース番組などに取材をされては困る。そんなことを考えている時、藤沢はマラソンのコマーシャルを思い出した。
 それはマラソン選手と車椅子の少年が登場する三〇秒のコマーシャルである。短い時間の中に感動的な物語が展開されている。ほとんど音楽だけのコマーシャルで、音声は最後に商品名がナレーションで入るだけである。商品は炭酸飲料であった。
 このコマーシャルが流された後、若者のボランティア希望者が急増したという。商品の売り上げも伸びたようだ。
 藤沢はそのコマーシャルについて調べてみた。どの会社の誰がそのコマーシャルを作ったのを調査したのである。コスモ・アドの北村がそのコマーシャルの企画立案者であった。しかし、北村の最新作は下品で低俗で凡庸なコマーシャルであった。そればかりでなく、差別的ですらある。
 この男にこんな仕事をさせていてはいけない。藤沢はクレームのファックスを送った。
 ファックスを送ってみると、おおまかな計画が浮かんできた。正確な計画ではない。それが嘘をつく上で重要な事だと藤沢は気付きつつある。正確な計画を立てることよりも、相手の言葉に対応してその場で自由に態度を変えることが大切なのだ。
 しかし相手は広告業界の人間、いわば嘘をつくプロである。悪魔に与えられた能力とはいえ、本当に通用するのだろうか。そう思いながら藤沢はコスモ・アドを訪れたのである。

「北村チーフ、お客様です」
 その声に北村は顔を上げた。石坂恵子が見知らぬ男を案内して来た。こっちは忙しいというのに、アポもなしに客を連れてくるなんてどうかしている。ふだんはそんなポカはしない娘なのにどうしたんだろう。
「あなたが、あのマラソンのコマーシャルを作られた方ですか。あれは素晴らしいコマーシャルです。感動しました」
 藤沢すすむはそう切り出した。まだ、嘘をつくことに慣れていない。
 目の前にいるのは感動的なコマーシャルを作った男、北村春夫である。男は広告業界の人間らしく、現代的な格好である。長い髪を後ろで束ね、髭を伸ばしている。体の周りにはやや古風なオーラ、たばこの煙をまとわりつかせていた。男は疲れているように見える。この業界の人間はいつもこんな風なのだろうか、それとも藤沢がクレームのファックスを送ったからだろうか。
 北村は男の言葉に微笑みを浮かべた。北村にとってもそれは自慢のCFである。半年も前の作品だが、会心の出来といえるものだ。はやりすたりの激しい業界で、自分のした仕事もどんどん忘れて行くが、あれだけは忘れられない。見知らぬ男の誉め言葉でも悪い気はしない。
「これは、これは。どうも、どうも。いや、いや、そう言われると悪い気はしませんな。まあ、どうぞ。お掛けください。ところで、あなたは?」
「申し遅れました。私、藤沢と申します。コンピュータのプログラム開発の会社を経営しています」
 ああ、それでか。北村は納得した。この藤沢という男、口調こそ丁寧だが、着ている服はぱっとしない。一応、スーツを着て、ネクタイを締めているものの、スーツは皺になっているし、ネクタイも結び目が頼りない。だが、コンピュータ会社の社長なら、服装に気が廻らなくても不思議はない。プログラマーとかハッカーとかそういった連中のひとりなのだろう。藤沢の差し出した名刺を受け取りながら、北村はそんな風に解釈した。男の掛けている分厚い眼鏡がその考えを裏付ける。
「実はお願いが御座いまして。もう一度、ああいったコマーシャルを作って頂きたいのです」
「いや、まあ、そりゃあ、私だって作りたいですよ。でもね、でもですよ。あの時はあの少年がいたから出来たのですよ。フィクションでは、ああは行きませんよ。駄目なんですよ」
「そうです、そうです。真実の重みですね。映画のハイライトシーンのように、少年の苦労が映されて……。最後に車椅子の少年が飲むソーダ水はうまそうでしたね。商品を売るというコマーシャルの基本を押さえていながら、同時に視聴者に感動を与える。そのテクニックに感心しました。それで、お願いに来たわけです」
 北村はおやっと思った。この男はCFの依頼に来たのか? いきなり乗り込んでくるのは失礼だが、クライアントとなるとおろそかにはできない。聞いたことのない会社名だけれど、北村はコンピュータ業界には詳しくないから、最近、急成長した会社なのかもしれない。
 藤沢は話しながら男の顔を見ていた。少しでも反応をつかもうと考えてのことだ。男の目は充血して飛び出している。目を合わせにくい。視線を外して鼻を見ると、これは細く高い。顎は尖っていて、頬の線は柔らかい。
 女顔である。髭は虚勢に違いない。きっとそういう虚勢が幅を利かせている業界なのだろう。長い髪もたばこも過酷な業界で生きていくための虚勢なのだ。
 ネクタイをしていないシャツはボタンが二つ三つ外されていて、裸の胸がのぞいている。藤沢はあわてて話を続けた。
「実は私の会社もようやく多少の利益を上げられるようになりまして。そうは申しましても、なにしろ、競争が激しいものですから、先のことは分かりませんが。これを期に、少しでも商品の知名度を上げようと思いまして。テレビ・コマーシャルの利用を検討していたのです」
「ああ、そうですか、そうですか。そういうことでしたら、営業のほうに話してもらえますか。時間枠とか予算とかそういうことは営業のほうが詳しいですから。いや、いや、誤解なさらないでください。内容についての打ち合わせはその後でゆっくり時間をかけてやりますから」
 北村は男を営業にまわそうとした。最初から営業にまわすべきなのだ。石坂恵子がこっちにつれて来たのが間違いなのだから。だが、マラソンのCFを思い出させてくれたのは良かった。あのCFを作った時のひらめきを、もう一度呼び戻せないだろうか。
 藤沢はあわてた。まだろくに嘘をついていない。偽の名刺を渡したくらいである。しかし、考えてきた話はどうも本当らしくない。この男に通用するだろうか。
「実は……」
 藤沢は少しためらった後、思い切って言った。
「実は、弟が白血病になってしまったのです。骨髄移植が必要なのですが、まだ骨髄バンクの登録者が少なくて、骨髄の型が一致しないのです。それで、あのマラソンのコマーシャルを思い出しまして、ああいう形でなんとか、骨髄バンクへの登録を呼びかけるコマーシャルをお願いできないかと思いまして」
 藤沢は考えておいた話をしてみたもののどうも本当らしくない。ほとんど真実なのにどうしてこうも白々しいのだろうか。
「それは、それは。いや、お気の毒です」
 北村はそう言ったが、本気で同情しているわけではない。CFにクレームをつけられた我が身と比べれば、病気なんて大した事ではない。男の話は、事実そのままで飾りのない、つまらない話である。
 事実なんてくだらないものである。当事者であるこの男にとっては、弟の生死のかかった重大な出来事なのだろうが、他人から見れば面白くも何ともない話だ。
 だが……。
「ところで、弟さんは自分の病気をご存知なのですか?」
「いや、それが……。まだ知らせていないのです。でも、コマーシャルで骨髄バンクへの登録者が大勢でるなら、知らせても大丈夫だと思います」
 男は話を信じたようだ。藤沢は一安心した。安心するとたばこの煙が気になりはじめた。
「それは困りましたね。だいたい、あまりないですよ。一企業がそういう社会的なキャンペーンをやるということは。あのマラソンのCFにしても、商品の宣伝になっているんですから」
 藤沢は弱った。弟が病気だという話は信じてもらえたようだが、それだけでは駄目なのだ。どうしたらいいのだろう。とにかく、何か言わなければならない。黙っていては悪魔に与えられた能力が働かないのだから。
 だが、そんなことを考えている間に、男は言葉を続けた。
「世間に名を知られていない会社が、そういう社会的なキャンペーンをやるというのは、まず例がありませんね。一流企業や、企業グループなら環境保護のキャンペーンをやった例はありますが……」
 北村はこの男に厳しく言うことにした。名も知らぬ会社が短期間だけ骨髄移植のキャンペーンをやったところでどれほどの効果があるというのか。莫大な金をかけ、あらゆるメディアに渡って行われた環境保護のキャンペーンにしたところで、実際の効果はどれだけあっただろう。キャンペーン参加企業のイメージアップにはなったれど。
 こういうキャンペーンは、クライアントもあまり明白な結果を期待していないから広告製作会社としては気が楽なのだが。この藤沢という男は、CFさえ流せばたちまち何万人もの人間が骨髄バンクに登録するものと思っているらしい。
「それに、マラソンのCFをどれだけ流したかご存知ですか。あいている時間枠があるかも分からないし。確かにいいCFの影響は大きいですが、それには視聴率の高い時間に何度も流さないとね。CFの基本は繰り返しですから」
「お金がかかりますね」
 藤沢はようやくそう言うことが出来た。なんの意味もない言葉だ。せっかく悪魔と契約したというのに言葉が出てこなくて無駄になってしまうのだろうか。やはり、嘘をつくということに向いていないのだ。本当に嘘をつく人は、次から次へと言葉が湧き出てくるような人なのだ。藤沢はそういう人を知っている。嘘だろうと思いながら話を聞いていても、次々に湧き出てくる言葉に押し流されて、いつのまにか信用してしまう。それが本当の嘘のつき方なのだ。藤沢は次に口をはさむ機会が来たら、何でもいいから事実に反することを言ってやろうと心に決めた。
「お金よりも枠ですね。いい枠は年間契約で押さえられてますから」
 北村は男が気の毒になってきた。もともと気の弱い男のようだ。よく社長になれたものである。プログラマーとしての能力が優れているために、社長としての能力もあると期待されたのだろうか。
 以前北村の上司だった人もそういう男だった。コピーライターとしては優秀だったが、リーダーとしては失格だった。そういう人間がリーダーになってしまうと、本人にとっても部下にとっても不幸な結果となる。
「意地悪ですね。あのマラソンのCMを作った人だから信用できると思っていたのに、結局、広告屋なんて金のことしか考えていないんですね。悪魔に魂を売り渡した守銭奴ですよ」
「いや、これは手厳しい。確かにこの業界にはそういう面もありますよ。しかし、それを言うなら、この文明社会そのものが悪魔に魂を売り渡した結果とも言えるのではないですかな。現代社会の物質的繁栄と交通事故やダイオキシンなどの弊害や精神的荒廃を比べると、悪魔との契約のように割の合わない取り引きだとは思いませんか。まあ、わたし個人としては、あなたにも弟さんにも同情しますが、初めてテレビコマーシャルを打つような会社が、ちょっとばかりボランティアを募るようなCFを流したからと言って、効果は期待出来ませんよ。しかし、方法がないわけではありません」
 北村はそこで言葉を切ってたばこに火をつけた。ゆっくりと三回、煙を吸う。北村はこの演出が癖になっているが、最近はあまり評判が良くない。けれども、たばこを吸わない人間に対して、自己の圧倒的優位性を見せつけるのに、これ以上効果的な方法はない。また、他者に対してこれほどの優位性を示す機会も、現代社会ではほとんどないのだ。
 十分に間を置いてから言葉を続ける。
「どうでしょう。弟さんを助けたいのですか、それとも会社の宣伝をしたいのですか」
「それはもちろん、弟が第一です。社内には、テレビコマーシャルは時期尚早、宣伝はこれまでどおり雑誌でやれば十分だという意見もありますし」
「それでは、他の企業が骨髄移植推進のキャンペーンをやってもいいわけですね」
「そんなことをやってくれるところがあるんですか」
 藤沢は間の抜けたことを言っている気がした。相手はうまく騙されたようだ。そうでなければ、たばこの煙を我慢した甲斐がない。だが、ここで馬鹿なことを言って台無しにしてはいけない。どういったらうまく話をまとめられるのだろうか。藤沢には見当もつかない。
「先程も言いましたが、大企業は特定の商品を売るのではなく、企業イメージを上げるための宣伝活動もしています。そういう活動の中には社会福祉的なものもありますから、骨髄バンクへの登録の呼びかけを行う可能性もあります。ただ、ふつうはどんな福祉活動をするかは企業の方で決められて、うちの方ではCFを作るだけですが」
「それではやはり無理なのでは……」
「ふつうはそうですが、何年も同じ企業の宣伝を担当していると信頼関係も出来てきます。企業側でも、次にどんな福祉活動をするか決めていないこともありますし……。こちらから提案する機会もあるのですよ」
 北村の言う事は自慢である。実際、今回のクレームが付くまではいい関係でやってきたのだ。その会社のCFは全てコスモ・アドが引き受けている。長い付き合いだからこそ、怒鳴られたりもするのである。信頼関係がなかったら即座に取り引きを中止されていただろう。まだ、失地回復の余地は十分にある。なんとか、この藤沢という男の骨髄移植推進キャンペーンというアイデアを横取りして、クライアントに提示しなければならない。
 アイデアの横取りと言っても結局この藤沢という男の要望は叶えられる訳だから、誰にとっても望ましい結果が得られるのである。
「まあ、約束は出来ませんよ。クライアントが承知してくれないといけませんからね。それから、全面的に私にまかせてもらえないと。クライアントは細かい注文を付けて来ますからね。広告業界もあなたが考えているように、血も涙もないというわけではありませんよ。結局のところ、人の心を動かす事が広告という仕事なわけですから、製作者にも人間の情がなければ、人の心は動かせませんからね」
「全面的におまかせするということですか。何か私にできることはありませんか、例えば賞金をつけるとか」
「それも一案ですが、こういうイメージアップを狙った場合は賞金をつけない方がいいということもあります。それに大企業は他の会社の口出しを嫌いますから」
「そうすると、私の出来ることは……」
「ありませんね。全面的に私に任せて、祈っていてください」
「弟のことはいつも祈っています」
「いや、企画が通ることを」
 藤沢という男は何度も感謝の言葉を口にしてからようやく出ていった。ドアのところでまた頭を下げる。
 北村はほっとした。これでクレームの代替案が作れる。他の時ならこんな甘い企画は通らないだろうが、クレームの後だけに、イメージアップは重要だ。時間もないから、きっとこの企画は通る。
 北村は自信を持って企画案を書き進めた。

 藤沢はあまりにも簡単に人を騙せてしまったので驚いた。ああいう業界にいる人間は嘘をつくのが商売のようなものだから、簡単には騙せないと思っていたのだ。
 悪魔の能力だけあって強力である。どうもこの嘘をつく能力は藤沢か期待していたよりずっとうまく働くようだ。言った言葉をそのとおりに相手が受け取るというのではなく、相手を騙したいと思っている意図がそのとおりに実現するようである。そうでなければ、今の会見がうまくいった理由が説明できない。
 悪魔の契約というものは、ずいぶんと良心的な商売のようである。これが訪問販売やテレビショッピングであったら、契約の文面以上の効果は間違っても期待出来ない。
 もちろん、コマーシャルが実際に流されて、骨髄バンクへの登録者が増え、妹と適合する型が出て来るまでは安心できない。しかし、こんなに簡単に騙せるなら、ラジオやインターネットも試してみればいい。きっと、骨髄バンクへの登録が流行になる。
 それだけでなく、こんなに簡単に人が騙せるなら、選挙に出れば当選は間違いないし、実演販売をすれば、大量の商品が売れるだろう。占い師や、ギャンブルの予想屋をやっても儲かるだろう。外れた時にはいくらでも言い訳ができるのだから。女の子を騙すことなども簡単に出来るに違いない。
 もっとまともな職業、外交官にも最適である。カウンセラーにも向いている。悩みを持った人に明るい将来を信じ込ませれば良いのだから。
 詳しく検討すれば他にももっとこの能力を活用できる職業はあるだろう。いや、ほとんどどんなことをやってもうまくいくに違いない。なにしろ、世は情報化社会である。情報の生産、加工、流通が社会活動の中心を占めているのである。そして嘘をつく能力とは情報を恣意的に操作する能力に他ならない。いわば、情報化社会の最終兵器である。
 藤沢すすむはその最終兵器の最も効果的な利用法を考えはじめた。
 あれこれ妄想を巡らせる藤沢の顔には悪魔的な微笑が浮かんでいた。


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