杉並太郎


 雪が降り始めた。
 隆太は先を急いだ。積もるようだと道に迷うこともある。
 このあたりは不案内だ。師匠の地図だけが頼りだが、師匠は簡略を第一としている。地図も極めて簡単なものだ。目印も最低限しか書かれていないから、一つでも見落とすと道を間違える。
 絶えず周囲に気を配っていれば、わかりやすい目印を見落とす心配はないと師匠は言うだろう。それでも道に迷うようならこれ以上の修行は無用ということなのだろう。隆太には師匠の言いそうなことは見当がついた。
 もちろん普段なら、全力で走っていても、お地蔵様のお供え物だって見逃さないし、珍しい薬草も見逃さない。馬糞、牛糞を踏むこともない。
 けれども雪が積もるとなると話は別だ。雪はすべてを覆い隠す。景色が単調になって感覚が鈍る。心が細くなる。
 峠を越えれば天気が変わる。
 隆太は山道を急いだ。細い道に覆い被さるように突き出している木の枝を避ける時にも走る速さは変わらない。猿や鳥の見逃した木の実でも隆太は見逃さない。ほとんど無意識のうちに食用の木の実を見つけて口に入れながら走る。
 どんよりとした雲と、高い木々に覆われて道は薄暗く、迫り来る寒気に獣たちもなりをひそめている。
 峠に出た。その先は雪景色。
 隆太は地図と景色を見比べた。そして地図にある川を景色の中に見つけた。目的地はその川の水源。川に出ればもう迷うことはない。隆太はふたたび走り出した。

 森の中。高い杉の木に囲まれて小さな池がいくつも並んでいる。杉の根元から池の周りまで濃い緑色が覆っている。池から離れると苔の上には白い雪が積もっているが、池の周りに雪はない。池からは湯気が立ち上っている。
 池の中には女が一人。
 長い髪と大きな目、白い肌が湯気に霞んで美しい。女には雪が静かに降りかかる。
 女はかゆいところでもあるのかしきりに手を動かして体を掻いている。女が体を掻くと、きらきらと光るものがはがれ落ちて、湯の上に浮かぶ。
 女はしばらくそうして体を掻いていたが、ふと森の中を見つめた。
 木陰から女を見ていた隆太は、女に見つけられてたじろいだ。
 隆太は女の裸を見たことがなかった。服を着ている女ですら、師匠の使いの途中で通りすがりに見かけるだけだ。
「すみません」
「そこで何をしているの?」
 女の声は怒りを含んでいる。
「お湯を汲ませてください。師匠のリュウマチに効くのです」
「見ていたでしょ」
 女はそう言いながらも、体を隠そうとしない。湯の上に浮かんだ乳房が隆太の視線を引き付ける。
「ごめんなさい」
「見ていたのね。あたしが鱗を剥がしているところを見ていたのね」
 隆太はすぐには何のことかわからなかった。分からないままに再び謝った。
「ごめんなさい」
 女は一度水に潜ると、隆太の近くの池から顔を出した。池は下の方でつながっているらしい。近くで見ると女は人間ではなかった。手の甲や耳の下、肘に鱗が付いている。水の下に透けてみえる体はほとんどが鱗に覆われているようだ。
「お湯が汲みたいんですって。いいわよ。あたしの鱗を全部はがしてくれたらね」
「そんなことして大丈夫?」
「鱗を全部はがすと人間になれるのよ。いい男を捕まえて楽しく暮らすの。あんた、結構いい男ね。あんたの嫁になってもいいわよ」
「おいら修行中の身だから」
 隆太は赤くなって答えた。
「いいわよ。陸(おか)}の上には男なんていくらでもいるんだから。それより早くこっちに来て、鱗をはがすのよ。そうしないと、お湯を汲ませてあげないわよ。必要なんでしょ」
 女を無視してお湯だけ汲んで帰ることも出来ないではなかったが、隆太は女に従った。もっと女を見ていたいと思ったからだ。
 女が呼ぶので隆太は池の中に入っていった。女が見ていたので、服を脱ごうか脱ぐまいか迷ったが、服を脱いだ。湯は温かくとも外は寒い、濡れた服は危険だ。湯は温かく、冷えた手足が痛かった。
「そっとよ」
 女に言われるままに、隆太は鱗をはがしはじめた。女がうつぶせになって池の縁の石にもたれかかったので、隆太は背中から鱗をはがしはじめた。
 腰のくびれまでは人の肌だが、尻は鱗に覆われている。二つに分かれてもいないこの尻の鱗をはがしたところで、本当にこの女が人間になれるのか、隆太には分からなかった。
 隆太は一枚の鱗をつまむと、ついと引き抜いた。女はピクンと体を震わせた。鱗を抜いたあとから一筋の糸のような血が湯の中に流れ出た。
 二枚目の鱗を抜いた時には血が出なかったので、隆太はほっとした。十枚目を抜くと、もう手の指の力が入らなくなってきた。
 ふだんから師匠の元で厳しい仙人の修行を受けていなければ、それ以上続けることはできなかっただろう。それでも、水に濡れてすべる小さな鱗を抜く作業は、師匠の修行と同じくらい厳しい。
 その上、背中から尻に向かうにつれて鱗は抜けにくくなった。指が滑ってすっぽ抜けたり、女が痛がって体をよじったりするために、先に進まない。
 仕方がないので女を仰向けにしてはがせる鱗からはがすことにした。女は仰向けになって捉まるところがなくなったので、隆太に抱き着いている。
 女の乳房が隆太の脇腹に触れる。
 しばらくは簡単に鱗が抜けたが、へその下、三列目くらいになるともう抜けなくなってくる。水面にはきらきらと光る鱗がいくつも浮かんでいる。
「駄目だ。もうはがせないよ」
 隆太はあきらめた。指は何もつかめないほど疲れ果て、あたりも暗くなってきた。女の体は、鱗を無理に剥がしたところから、幾筋も血が流れ出している。
「駄目よ。ここまでやったんだから、最後までやらなきゃ」
「もう指がふやけてつかめないんだ。暗くてよく見えないし」
 そう言うと隆太は池から上がって体をふいた。湯から上がると寒かった。急いで火を起こす。女は池の縁によりかかって不満そうな顔をしている。
 たきぎが燃えはじめると隆太にも余裕が出てきて、女の心配が出来るようになった。
「あした、あしたにしよう。きっと全部はがしてあげるから」
「駄目なの。あしたじゃ、駄目なのよ」
 隆太は女の言葉を無視して眠ろうとつとめた。

 翌朝、隆太が目を覚ますと、女のすすり泣きが聞こえた。
 女は泣きながら鱗をはがしていた。女の体は胸から下が鱗に覆われていた。腕も肘から手の甲まですっかり鱗が着いている。一晩の間に元に戻ってしまったのだ。
「やめなよ」
 隆太は池の中に入って女を抱きしめた。
「やめなよ。あんたは今でもきれいだよ」
「じゃあ、水の中であたしと暮らしてくれる」
「……」
 隆太は答えられなかった。修行が何よりも大切であり、それの妨げとなることは出来ないからだ。だが、そう言っても分かるはずがない。
「いいわよ。お湯でもなんでも勝手に汲んでいくがいいわ」
 女はそう言うと水の中に潜ってしまい、それきり出てこなかった。
 隆太は革袋に湯を汲むと、池に向かって一礼し走り去った。

おわり

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