星を見る

杉並太郎


 ヤンは川原の砂利の上に裸足で立っていた。
 ヤンはまだ少年だ。背は低く痩せている。上半身は裸、腰には獣の皮を巻いている。日に焼けているが、筋肉は貧弱だ。
 さっきから、槍を構えて水面を真剣に見詰めている。
 水面下でぬっと影が動いた。槍を繰り出す。ガキっという音がして、槍は水底の石に当たった。また逃がした。
 槍を手に入れてからろくな物を食っていない。
 槍は三日前にリキからもらった。リキの所に物乞いに行ったら、自分で獲物を捕ってみろと言って、槍をくれたのだ。
 もちろん槍は欲しかった。ずっと前から欲しかった。槍があったら、物乞いなどしない。けれど、ヤンには槍を作ってくれる親がいなかった。
 ヤンは親を覚えていない。物心ついて以来、腹が空けば誰かの家に行って飯を食った。人がいれば呉れるまで粘ったし、誰もいなければ勝手に食った。何度も殴られた。
 三日前にリキの所に物乞いに行った時、食べ物の代わりに古い槍をもらった。
「もう、食べ物はやらん。自分で獲れ。だが、その槍をおれたちに向けたら、殺す」
 脅されなくても、ヤンは人に刃を向けるつもりはなかった。槍さえあればいくらでも獲物が取れると思った。
 すぐに、考えが甘いと思い知らされた。
 獣はみな隠れ方がうまく、逃げ足が速く、そして反撃して来た。体力を大幅に消耗した後、ヤンは魚を捕ることに決めた。その方が安全だ。
 ヤンの住処の近くには川が流れていた。小さな川で住んでいる魚も小さいが、溺れたりする心配はない。川は二本になったり、三本になったり、また一本の流れに戻ったりして、周りは湿地になっていたり、砂利や砂が溜まっていたりする。
 ヤンは小さな川の小さな中州に立って、槍を構え、じっと水面を見下ろしていた。水中の魚を探しているのだが、いつのまにか水面を見つめてしまう。ヤンにはそういう癖があった。肝心なことに集中できず、どうでもいいことに心が向いてしまう。
 水面の波模様はきらきらと輝きながら移り変わり、変わりながらもいつも同じ波模様を示している。水は絶えることなく次々と流れてくる。
 水面を見つめているとヤンは不思議な気持ちになる。ヤンの立っている中州が動いているような気がしてくるのだ。中州はいつのまにか動き出し、どんどん上流に向かって進んで行く。体が揺れたような気がして、顔を上げ周りを見回すと大地はじっと動かずにいる。
 おかしいと思いながらも水面に目を戻すが、しばらくすると、また中州が動き出す。そんなことが気になってなかなか魚が取れない。
 それでも、やたらに槍を突き刺しているうちに、小魚が三匹刺さった。それ以上は取れそうもないので、ヤンは川原で火を起こした。
 魚はうまくなかった。小骨がやたら多い。物乞いしてもらった食べ物の方がましだった。盗んだ食べ物にはもっとうまい物があった。
 しかし、魚はまずくなかった。自分で取った魚だから、罵られたり、哀れみを掛けられたりしない。追いかけられて殴られることもない。
 その夜、ヤンは槍を抱えて眠りについた。

 二三日すると、さかな取りはずいぶん上達した。一方、さかなは減って来た。小さい川なのだ。さかなが用心深くなったのかもしれない。
 そこでヤンはもう一度、獣を狙ってみることにした。さかなが取れるようになったので、少し自信をつけたからだ。
 兎を狙うことにした。兎なら反撃が恐くない。ヤンはその日、一日中兎を追い掛け回し考え方を変えた。待ち伏せだ。待ち伏せなら、獲物が取れなくても体力の消耗が少ない。実はもう兎を追い掛け回す体力がなかった。
 ヤンは待ち伏せの才能があることに気付いた。それは誰も食べ物を分けてくれない時にいつまでも粘り続けることに慣れていたからかも知れない。
 待ち伏せを始めるとすぐに心が体を離れたようになって、いつのまにか時間が過ぎているのだ。草を食べる青虫や、蟻の列を眺めているうちに、たちまち時間が過ぎて行く。
 けれども、兎は都合よく現れてくれない。遠くの方で動いているところを見かけたり、ちょっと離れたところで、もごもごと口を動かしていたりするが、なかなか槍で仕留められるところまでは近づいて来ない。
 飛び出して行って、兎を追いかけようかと思ったが、それでは同じ事の繰り返しになってしまう。ヤンは草むらに隠れながら、兎がもっと近づくのを待ち続けた。
 息を殺してヤンは待ち続けた。風が吹き、雲が流れて行った。痺れてきた足の位置を変える。
 兎は来ない。焦る気持ちがヤンの胸の中で湧き起こり、広がり、そして消えていった。もはやヤンは何も待っていなかった。青虫や蟻の列も気にならなかった。ヤンは何もしていず、何も考えていなかった。ただ時間だけが過ぎていった。
 気がつくと目の前に兎がいた。その意味がゆっくりとヤンの心に浮かびあがってきた。槍が動く。ヤンは兎を仕留めた。
 ヤンは、あぶった兎の肉を食べている時に気付いた。兎の巣穴のそばで待っていれば、もっと簡単に兎を仕留められる。

 次の日、ヤンは兎の跡をつけて巣穴を確かめることにした。兎の穴ならいくらでもあるが、使っていない穴を見張っても仕方がない。夜になれば巣穴に戻るだろうと考えて、夕方近くになってから、兎の跡をつけた。
 仕留めようと思って追い掛け回すのでなければ、兎の跡をつけるのは楽だ。鳥や花や草や蝶をのんびりと眺めなら、兎の跡をたどり巣穴を突き止めた。
 すぐに日が暮れた。
 朝になって巣穴から出てきたところを仕留めてやろう。ヤンはそう考えて、仰向けに寝転んだ。
 ひとつ、ふたつとまばらに灯った星が、やがて数え切れない程の夜空になった。
 ヤンはもちろん夜空の星を見たことがある。いつまでも見ていると星が降ってくるような、体が吸い込まれて行くような気がすることも知っていた。
 星空を見つめているとだんだん恐くなってくる。そしてすぐにねぐらに引き上げていた。今日はずっと見ていてやろう。何かが起こるかもしれない。ヤンはそう考えてずっと夜空を見つめていた。
 星空には模様があった。それは発見だった。明るい星が集まって模様を作っていた。その模様にどんな意味があるのか、ヤンには分からなかったけれど、神秘に触れた気がした。
 ヤンはいろいろな模様を見つけ、その意味を考えていたが、やがて考えるのに疲れた。そして星空を見つめたまま考えるのを止めた。
 時が流れる。
 ヤンは違和感を覚えた。何かが変だ。さっきと違う。空には数知れぬ星が輝き、模様を作っている。けれども何かが違う。しばらく考えて、ようやく分かった。模様の位置が違っている。空が動いている。
 ヤンは太陽が動くこと知っている。それは誰だって知っている。けれども、空が動くことは知らなかった。それはまったく意味が違う。なぜなら、太陽はひとりで空の中を動いているからだ。
 ところが星空は全体が動いている。一つの模様だけが動いているのではない。模様が動いているのではなくて、空が動いているのだ。
 ヤンはその事実に驚き、喜んで、星空を見続けた。考えることを止め、意識の流れをゆっくりにすると、時間が速く流れた。
 星空がゆっくりと回転する。
 ゆっくりと回転する星空を眺めていると、川の流れを見つめていた時のような不思議な感じがしてきた。
 大地がまわる。
 ヤンを乗せた大地がゆっくりと回転していく。
 星空がまわる。大地がまわる。


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