八天

杉並太郎


 机の上には壊れた時計。
 秒針が1の数字の近くで震えていて、先に進まない。分針は重力に引かれるように十五分から三十分の間は6の数字を指したままだ。三十分を過ぎるとようやく上に向かって動き始める。
 机は中古の事務机。上に被せてあるビニールシートは黄色く変色し、コピーのトナーが汚く写っている。時計のとなりには古いデスクトップが乗っている。電源は入っていない。
 電話は黒電話。部屋の壁には張り紙を剥がした後のテープが残っている。四角く壁の色があせずに残っている張り紙の跡。
 倒産した会社の事務所を安く借りたように見える。
 ドアのガラスには裏返しの文字が見える。一条探偵事務所。
 こんなものか。俺はネット上の3D(スリーディー)オフィスを見まわして思った。
 CG(コンピュータグラフィックス)では、ピカピカに見せるより汚す方が手間がかかる。
 俺は今日から探偵を始めることにした。ネット上の探偵、電脳探偵(サイバーデテクティブ)。略して、サバデブ。
 俺はもう狩られることには飽きた。3Dの身体(ボディ)を傷つけられたり、殺されたりするのは実害がなくても嫌なものだ。そんなことをされるためにネットに入ったのではないのだから。
 これからは、狩る側になってやる。もちろん、名前も知らない相手を殺傷するような馬鹿な事はしない。探偵になってネット上の殺人者を捕まえてやるのだ。
 必要な知識は一通り揃えた。あとは事件を待つばかりだ。
 俺は、客が来たら連絡が入るようにして事務所を出た。

 ネットの入り口に来た。俺の事務所があるのは電脳第八天国というサイトだ。略して八天。
 派手な看板が出ている。
――ここは自由の大地だ。猫を悪党呼ばわりしようが、チップに唾を吐こうがあんたの自由だ。
 こいつが曲者なのだ。俺も初めてここに来た時は騙された。実は自由ってことは他人に好き勝手にされるということなのだ。
 入り口には初心者が多い。つまり獲物が多い。中級者以上になると入り口は通らずに直接行きたいところに行く。入り口付近にいるのは初心者か、初心者を狙うスレた中級者だ。
 初心者がたどる道は二つ。まともな人間になるか、壊し屋(クラッカー)になるかだ。ネットによって証明されたことだが、人は楽しみのためだけに人を殺すことができるということだ。
 ネット上で人を殺しても、金にはならない。ネットマネーには厳重なセキュリティがかかっている。それにも拘わらず、ネット上で殺人は絶えない。むしろ、自由に人を殺せるというのでネットにやってくる者もいるくらいだ。
 俺は入り口の辺りをぶらついた。派手な看板が立ち並び、歩くのに邪魔になる。うっかり触れようものなら、中に引き込まれてしまう。俺も始めの頃はよく看板に触れてしまい行きたくもないサイトに飛ばされたものだ。
 しばらくぶらついたが、ひどい目に会っているやつは見つけられなかった。あんなに大勢いた壊し屋どもは何処に行ったのだろうか。探偵なんか始めても無駄だったのだろうか。
 いや、まだ少し歩いただけだ。それに被害の多くは事務所で発生するものだ。新しく作った事務所に押し込まれたり、宣伝に釣られて行った先で襲われたりするのだ。
 入り口には俺の看板もあった。
「一条探偵事務所――ネットで被害にあった方のお役に立ちます」
 この看板自体が犯罪者を引き付ける。やつらは正義を振りかざす連中が嫌いなのだ。こんな看板を立てれば、犯罪者に狙われるのは明らかだ。だが、俺は正義の味方ではない。単なる復讐者に過ぎない。不特定のネット犯罪者を仇と決めたのだ。
 彼らを犯罪者と呼ぶのは正しくない。ここには法律がない。インターネットに法律を制定しようという動きはあった。たぶんまだ条約を決めようという委員会があるはずだ。だが何十年も暫定案をいじっているだけで条約はいつまで経っても出来ない。関係する国が多すぎるし技術の進化も速すぎる。国の代表が集まった国連の委員会なんかではとてもじゃないが条約は作れないだろう。
 だからここはクラッカーたちのユートピアだ。
 ――これまでは。
 これからはクラッカーを襲うスーパークラッカー、つまり俺の天国となる。
 この日のために俺は情報工学の通信講座を受講し、八種類のアセンブラ、十六種類のリスプ方言、三十二種類のOSの六十四種類のシステムコール、GUIのAPIは六万五千五百三十六関数をマスターしたのだ。
 その過程で俺はひとつの真実を見つけた。
『言葉はポインターだ』
 ポインターっていうのは、低次元の言葉で説明すればアドレスの入っている変数のことである。高次元ではコンピュータ内部の存在を指すものであり、故意に、存在そのものと同一視されるものである。
 言葉だってそれの指すものと同一視されている。だが、言葉とポインターの本当の一致点は、その指しているものをしばしば間違えるということである。
 ポインターの間違いはプログラミングの初心者が犯す最も一般的な間違いである。おそらく『自由』という言葉もいつのまにかポインターが違うものを指してしまったのだろう。

「助けて」
 俺が事務所に戻り、更に現実空間に戻って宅配ピザを食べていた時、その声が聞こえた。慌ててヘッドセットを着けると、女の子の後ろ姿が見えた。
 長い髪が背中で揺れている。ミニスカートから伸びた脚が一歩、二歩と空中を駆け上がり、三歩めで彼女は消えた。
 その姿は光線(レイ)追跡法(トレーシング)のようにみえた。八天では光線(レイ)追跡法(トレーシング)をサポートしていない。ネット参加者がみんな光線(レイ)追跡法(トレーシング)で自分の身体(ボディ)を作っていたのでは、サーバの計算能力がいくらあっても足りはしない。
 多角形(ポリゴン)の上にそれらしい画像を貼り付けているのだろうが、よく出来た身体(ボディ)だった。
 彼女は依頼人だ。
 俺はようやくそのことに気がついた。別に金を目的にしている訳ではないから、依頼人と捜査条件を詳しく決める必要はない。探偵の事務所に来て、「助けて」と言ったなら依頼は成立したと考えていい。俺はそう決めた。
 経路追跡ツールを呼び出して、彼女の行き先を調べる。トレース・ルートはルーツの古いツールだ。文字だけで情報を交換していた頃からあるという。
 彼女はまだ八天内部にいた。そして三人のクラッカーが彼女を追いかけていた。
 彼女の居場所はゲームエリア。世界中のゲームの海賊版が集まるところだ。
 そこにあるゲームは、主人公が無敵なっていたり、最初から貴重なアイテムを持っていたりして、とても簡単に遊べるように直してある。クラッカーのゲームレベルに合わせてあるのだ。
 なにしろ連中は海賊版を山ほど抱えているものだから、すべてのゲームをまじめにプレイするだけの時間がない。最初からすべてのアイテムを持ち、無敵の状態でゲームを開始し、一時間もしないで最後の敵を倒してしまう。
 俺がゲームエリアに着いた時、そこは血の海になっていた。
 ここの身体(ボディ)をデザインした奴が悪趣味だったために、ちょっとした傷でも派手に血が飛び出すようになっているのだ。そしてここには身体(ボディ)の破片が散らばっていた。
 現実の肉体には傷一つ着かないとはいえ、これだけ切り刻まれたのでは精神に傷がつくだろう。少なくとも何日かは悪夢にうなされるに違いない。
 彼女が俺の事務所に姿を見せてからまだ十分も経っていない。俺はたった十分間で最初の仕事を失敗したことになる。
 彼女(の身体(ボディ))を殺した奴に復讐するため、俺は再びトレース・ルートをかけた。

 着いたところは映画エリアだった。ここももちろん海賊版ばかりだ。ここでもクラッカーたちは勝手に映画を編集して、女優を裸にしてみたり、主役と敵役を入れ替えたりしている。
 そしてここには内臓が散乱していた。床に散乱した内臓はぬめぬめと光っていた。光線追跡法(レイトレーシング)を使ったかのようなリアルな光り方だ。そもそも身体(ボディ)を切っても内臓は出ない。血が出ることですら、悪趣味なデザイナーのおふざけなのだ。
 俺はわけが分からなくなって来た。内臓は気持ちが悪い。
 そして俺は身体(ボディ)と乖離した。俺の意志とは無関係に俺の身体(ボディ)はトレースルートをかけていた。
 八天でのインタフェイスはこうなっている。八天に入る前に脳をスキャンし、電気磁気スピンなどあらゆる検査方法を使ってデータを取る。そして脳の全神経細胞の状態が記録される。
 そのデータは八天のサーバに送られる。八天のサーバではそのデータを元に脳の活動をシミュレーションする。このシミュレーションプログラムは、虱潰し法によって最適化されている。つまり最初に俺の脳のデータを送った時に、サーバはシミュレーションのパラメータの次々と変化させてシミュレーションを行い、俺にふさわしいパラメータを見つける。
 この方法では脳のことは何も分からない。単におれのように振る舞うというシミュレーションが出来るだけだ。そしてネットに入って活動している時、俺のもとにはこのシミュレーションが見ている映像と聞いている音が届けられる。
 それでもたいていは、自分で考えているとおりに俺の身体(ボディ)は動く。だが、時々思ったように身体(ボディ)が動かなくなる事がある。それが乖離だ。これはかなり困った状況だ。
 だがネットを使っているとこういう事には慣れてしまう。昔からネット用のソフトがまともに動いたことなんかないのだ。メーカーは勝手に規約を拡大するし、利用者は規約の使い方を間違える。それが自由なネット社会の宿命だったのだから。
 俺の身体(ボディ)は、フリーマーケットに出た。ここでは、現実に根ざした商品が活発に売買されている。麻薬や毒物や銃や子供などだ。
 広間の中央に立った身体(ボディ)が見えない鞭を振るうように腕を動かしていた。その身体(ボディ)は血まみれで、体に着いた血がぬらりと光っていた。光線追跡法(レイトレーシング)の血だ。
 それは彼女だった。
 彼女は俺に向かって手を振り、俺の身体(ボディ)は切り裂かれた。
 彼女が振っていたのは太さゼロの鋼鉄の糸だった。
 俺のテキスト画面にはそう表示されていた。
 俺は身体(ボディ)と乖離してから、テキストモードを起動していた。このモードなら身体(ボディ)など必要ではない。だがすべての行動を文章で打たなければならない。それも文字列以外は英文で。
「助けて」
 鋼鉄の糸を振るって殺戮を続ける彼女からテキストモードにメッセージが届いた。俺には分かった。彼女も身体(ボディ)と乖離しているのだ。
 俺は彼女の身体(ボディ)を停止させるためにコマンドを送った。駄目だ。KILLもNUKEもTILTOWAITも効かない。彼女の身体(ボディ)は無敵モードになっているのだ。
「接続を切れ。ネットから出るんだ」
 俺は彼女にメッセージを送った。接続が切れれば身体(ボディ)は停まるはずだ。
「だめなの。出来ない」
 何がどう出来ないのか分からないがとにかく出来ないらしい。住所を聞くとそんなに遠くない。電車で三十分くらいだろう。俺は直接行くことにした。もっとも、三十分もすると八天のクラッカーたちはみんなずたずたに切り裂かれているだろうが。

 彼女の部屋はオートロック式のマンションにあった。玄関からインターフォンで呼んだが答がない。部屋にいないのだろうか。
 接続が切れないと言った彼女の言葉が気になったので、管理人に頼んで彼女の部屋まで付いて来てもらった。部屋の前でベルを鳴らしても応答しない。管理人は留守だろうと言ったがネットに入っているからいるはずだと強引に説き伏せて鍵を開けてもらった。
 部屋の中に彼女はいた。ヘッドセットを着けてきちんと椅子に座っていた。
 俺が肩に手をかけると彼女は椅子から崩れ落ちた。
 死んでいる。
 その後は警察の仕事だった。彼女は半日も前に死んでいた。死因は精神的なショックによるものだろうという。外傷はなかった。
 俺が思うには彼女はクラッカーに襲われたのだろう。具体的にどんなことをされたのかは考えたくない。その衝撃は大きかった。そして彼女と身体(ボディ)は乖離した。彼女はショックで死に、身体(ボディ)は復讐の鬼となった。
 俺に助けを求めたのは身体(ボディ)の方だ。身体(ボディ)の中には彼女のすべてが入っているのだから、殺戮を拒否する部分もあったのだろう。
 俺は身体(ボディ)を助けられなかった。探偵事務所は閉めた。おれは探偵を気取っていたが本物じゃなかったからだ。依頼人を助けられなかったのだから。
 三日もしないうちに八天は閉鎖された。彼女の身体(ボディ)が暴れ続けたからだ。そう、彼女の身体(ボディ)は接続を切っても暴れ続けた。八天の安全機構など彼女の身体(ボディ)にとってはないに等しいのだ。
 八天が閉鎖されて身体(ボディ)が安らかな眠りに着いたことを祈りたい。
 最近、他のネットで幽霊が出たという話を聞いたけれど。見に行こうとは思わない。

おわり

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