長太郎

杉並太郎


「美代子、ご飯ですよ。美代子、どこにいるの? ご飯ですよ」
 お母さんが美代子を呼んでいる。
「お母さんが呼んでいるから行かなくちゃ」
 まだ遊びたい気持ちもあったが、ご飯といわれるとお腹が空いているのに気がついた。それに、お母さんを怒らせると、とても恐い。
「そうだね、もうお帰り。また明日遊べるからね」
「うん、バイバイ、ちょうたろ」

「また、ひとりで遊んでたのね」
「違うよ、ちょうたろと遊んでたの」
 お母さんはため息をついた。どうして、この子は友達と遊んだり、テレビゲームをしたりしないんだろう。テレビゲームだったら一緒にしてあげるのに。いつも、空想の友達とばかり遊んでいる。春になって、幼稚園に行くようになれば、きっと友達もできるだろうけれど。
「そう、仲良しなのね。長太郎君と」
「うん、でも、ちょうたろは、ちょうたろうくんじゃないんだよ」
「どんな子なの、チョータロは?」
「ちょうたろはね、子供じゃないの。お父さんみたいなの。お父さんよりもっとお父さんみたいなの」
 お母さんはまたちょっと不安になった。どこかの変質者と遊んでいるのではないかと思ったからだ。いつもひとり言を言っているように見えるけれど、変質者と話しているのだとするとぞっとする。これからは、気を付けていなければならない。美代子と話しているのはどんな男なのだろうか。
「チョータロはどんな格好をしてるのかな。背は高いの、低いの?」
「えっとねぇ、……」
 美代子は困ってしまった。お母さんがちょうたろのことを聞いてくれるのはうれしいのだけれど、うまく言葉にできない。
「あのね、おっきい時はね、お父さんよりもっとずっと大きいの。でもね、いつもはみよこと同じくらい」
「チョータロは大きくなったり、小さくなったり出来るのね。いいわねぇ」
 お母さんは少し安心した。やはり、空想の相手と遊んでいるのだ。
「うん、美代子もちっちゃくなれるんだよ。ちょうたろとありんこの巣に入って遊んだの」
「そう、よかったわね」

「こんにちは、美香ちゃんのお母さん。今日はご招待ありがとうございます」
「まあ、えらいわねぇ。りっぱなご挨拶ができて。パーティはもう少ししたら始まるからね、それまで奥で美香と遊んでてね。まあ、美代子ちゃんは、立派にご挨拶が出来てうらやましいわ。やはり、何か特別な教育をなさっていらっしゃるの?」
「いいえ、何もしていませんの。何だか、言葉だけはませていて、可愛げがないんじゃないかしら」
 本当に、教えてもいないのに美代子は大人びた言葉を使う。あいかわらずの一人遊びでも、大人のような丁寧な話し方をする。それも、大人のまねをしているというよりも、生まれつきのような自然な話し方をする。不思議だが、悪いことだとは思えない。よその子供が流行の下品な言葉を使うのに比べれば誇らしくもある。

「ハッピィ、バースディ、トゥ、ユー、……」
 かわいらしく着飾った子供たちの歌声が響く。
 美香はちょっと不機嫌だった。みんなと一緒に歌いたかったのにママに止められたからだ。歌が終わって、ろうそくを吹き消すように言われると、たちまち上機嫌になった。椅子の上に立ち上がって、顔をケーキに近づけて思い切り息を吹きかける。拍手が沸き起こると顔が熱くなった。
 あれ、まだ消えてないろうそくがある。美香はあわてて吹き消そうとしてテーブルの上に身を乗り出し、バランスを失った。あわててテーブルをつかむが、テーブルクロスごとずり落ち、グラスもケーキも料理も床の上に投げ出される。
 あわてた母親たちが、美香を慰めようとしたり、着飾った服が汚れないように避けようとして動きまわるうちに、天井から吊るした紙や塩ビの飾り物が落ちてきた。つぶれたケーキの上でまだ消えずに残っていた最後のろうそくの火がそのテープに燃え移った。
 泣きはじめる前のためらいの中にいた美香は、炎を目にすると大声で泣きはじめた。つられて子供たちが泣きはじめる。子供たちの泣き声は親たちを混乱させ、美代子のお母さんもうろたえはじめた。
「ちょうたろ、ちょうたろ、ちょうたろー」
 美代子が叫んだ。
 絡まった飾りテープの何本かを焼いただけで炎は収まった。親たちも落ち着きを取り戻し、自分の子供をなだめたり、服が汚れないように気を付けながら、片付け始めたりした。
 親たちが宅配の料理を手配し台所からデザートを先に出してくると、最後までぐずっていた美香も機嫌を直した。
 美代子は他の子供たちがいるのに、一人遊びをはじめた。
「ちょうたろ、ありがとう」
「どういたしまして」

 堤防の上を風が吹きぬけていく。
 奈々子先生は、園児たちを連れてお絵かきに来ていた。今日は不思議なくらい園児たちのお行儀がいい。女の子にちょっかいを出して泣かせる子もいなければ、ふらふらとどこかに行ってしまいそうになる子もいない。せいぜい、クレヨンで服やかばんを汚すくらいだ。
 奈々子先生は一人一人の絵を見てまわった。何を描いているのか判別不可能なものも少なくないが、絵は普段無口な子との会話の糸口になる。
「うーん、じょうずにかけたね。この黄色いのは何かな?先生に教えてくれる?そう、うん、じょうずじょうず」
「りょうちゃん、どうしたの。あら、線がはみ出しちゃったのね。よし、じゃあ、削っちゃおうか。ちょっと待ってね……。はい、もうだいじょうぶ」
「美代子ちゃんはなに描いてるのかな?」
 そう言いながら覗きこむと、何か白くて長いものを描いている。
「これは何かな? 道かな」
「ちょうたろだよ」
 奈々子先生はもちろん美代子ちゃんの長太郎のことを知っていた。しかし、長太郎の姿は知らなかった。
「長太郎君ってヘビさんだったの。先生知らなかったわ。ヘビさん恐くないの?」
「うん、きょうはヘビさんなんだよ。ちょうたろは恐くないよ。やさしいんだよ」
「そう、先生はちょっとヘビさんは恐いな」
「ヘンなの。先生、ヘンだよ」
「そうかな。先生、変かな」
「うん。それからね、先生、そこにいるとちょうたろが見えないの」
「あら、ごめんなさい」
 そう言いながらも、奈々子先生は後ろを振り返ってヘビがいないことを確認した。一人遊びの相手がヘビだなんて随分変わった子だ。けれども、他に問題行動があるわけではない。こういう場合は、そっとしておいた方がいい。いずれ卒業する一人遊びなんだから。
 奈々子先生は他の子の様子を見に行った。
「ちょうたろ、奈々子先生ってヘンだね。ヘビがきらいだなんて。ヘビのちょうたろの方が描きやすいのに」
「蛇を嫌いな人は多いのだよ。好きな人の方が少ないのだ」
「そうなの。じゃあ、ヘンなのは美代子だね」
「ひとの嫌いなものを好きだからといって、変だということにはならない。それを好きずきというのだ」
「美代子はちょうたろが、好きスキなの」
「ありがとう」

「美代子、いつまで一人遊びしてるの。ご飯にしますよ。お父さんがお腹空かせてるでしょ」
「一人遊びじゃないよ。宿題してたの」
「そう、ならいいけど。さ、ご飯にしましょ。手を洗ってきなさい」
「はい」

「ねえ、長太郎。どうして、お母さんは長太郎と話してると嫌がるのかな」
「他の子供と違っているからだろう」
「どうして違っていると嫌なの?」
「きっと不安になるからだろうね。同じなら安心できるから。けれど、私は美代子にしか見えないからね」
「どうして長太郎は美代子にしか見えないの」
 美代子は以前から不思議に思っていたことを尋ねた。
「むかし、何百年も昔、わたしは人間の姫と結婚することになっていた。美代子はその姫の生まれ変わりなのだ」
「美代子と長太郎はむかし結婚していたの?」
「いや、結婚は出来なかった。不幸な出来事があったのだ」
「不幸な出来事?」
「ああ、不幸な出来事だ」
 長太郎はそれ以上話してくれなかった。

 美代子はなるたけ美香ちゃんと遊ぶようにした。美香ちゃんと遊ぶのは楽しい。ただ、美香ちゃんは長太郎ではない、自分勝手で、すぐに怒ったり、泣いたりする。それでも美香ちゃんと遊ぶのは、普通の子のように友達と遊んでいれば、嘘をつかずにお母さんを安心させられるからだ。
 それでも時々は、美香ちゃんが長太郎みたいに優しい話し方をすればなぁとか、長太郎が美香ちゃんみたいに普通の人間の子供だったらなぁと思う。
「美代子ちゃん、早く」
「はーい、今日はどこ行くの」
「芝滑り。この間、お兄ちゃんに教えてもらったの。すごく面白いんだから」
「え、なーにそれ?」
「教えたげるから段ボール持ってきて」
「お母さん、段ボールある?」
「はい、はい。今出しますよ」

 堤防では何人もの子供たちが芝滑りをしていた。流行しているようだ。
 美代子と美香はしばらくの間一つの段ボールを交代で使って芝滑りをした。美香の家では段ボールを回収に出した後でなかったのだ。ふたりではしゃぎながら交代で滑るのは楽しかった。
 しかしながら、ひとしきり遊ぶと少し疲れた。
「ちょっと休も」
 肩で息をつきながら美香ちゃんがいうと、美代子はすぐ同意した。二人は段ボールを敷いて堤防の斜面に腰を降ろした。
 近くではまだ知らない子供たちが芝滑りをしている。飽きて帰ってしまう子もいれば、新しくやってくる子もいるようだ。
 川岸では大人が釣りをしている。美代子は釣れるかなと思ってしばらく見ていたが、動きはなかった。どこが面白いのだろう。
 向こう岸はゴルフ場になっていて芝生の上に人の姿が見えたが、細かいところまでは分からない。
「ねえ、ボートがあるよ。行ってみない」
 美香ちゃんの指差す方をみると釣り用のボートだろうか、手漕ぎボートが一艘こちら側の岸につないである。美代子は以前、家族旅行のときに貸しボートに乗ったことがあった。
「いくらするのかな。美香ちゃん、お金持ってる?」
「うん。でも、誰もいないよ」
 近づいてみると、ボートは少し古びたものだった。辺りに持ち主らしい人はいない。
「乗ってみようよ」
 美香ちゃんの誘いに美代子はためらった。他人の物を勝手に使ってはいけないし、子供二人でボートに乗るのは危険かも知れない。
「でも……」
「だいじょうぶだよ。後でお金を払えばいいんだよ。前に美香が乗ったときは後でお金を払ったんだよ」
「でも、これ、古いよ。古くなって捨てたんじゃないかな。沈まないかな」
「そうだね。捨ててあるんだよ。きっと新しいボートを買っていらなくなったんだよ。もらっちゃおうよ」
「でも、沈むかもしれないし……」
「大丈夫だよ。だって浮いてるもの。穴が開いていれば、もう沈んでるよ」
「でも……」
「大丈夫だって。じゃあ、美香が乗ってみるから、見ててよ」
 そう言うと、美香はコンクリートの川岸から足を伸ばして、ボートに乗った。ボートは大きく揺れ、美香はびくりとした。平気なふりをしてほこりを払い、腰を降ろした。
「ほらね。大丈夫じゃない。美代子ちゃんもおいでよ」
 乗るな! 乗ってはならない。危険だ。
 美代子の頭の中で長太郎の声が大きく響いた。
 長太郎の声はいつも美代子の頭の中に直接聞こえてくる。けれども、美代子が返事をするとそれは声になって周りの人にも聞こえてしまう。美香ちゃんはおしゃべりだから、その前で長太郎と話しはじめたらすぐにお母さんにばれてしまうだろう。長太郎に言われるまでもなくボートに乗るつもりはなかったから、長太郎には返事をしなくていい。
「いやよ。危ないもの。今だって、揺れたし……」
「もう、美代子ちゃんは臆病なんだから。平気よ、平気。揺れるのは、乗るときだけだから」
「美香ちゃんも降りた方がいいよ。沈むかもしれないから。後でお父さんにボートに乗れるところに連れていってもらおう、ねっ」
「いや、お父さんは美香に漕がせてくれないもの」
「美香ちゃん、漕いだことないの。じゃあ、やめようよ」
「美代子ちゃんは漕いだことあるんでしょう。だから、一緒に乗ってよ」
 美代子は困ってしまった。美香ちゃんはあきらめそうにない。長太郎は乗るなと言っている。
「だめだよ、おとなの人がいないと。美代子は乗らない」
 美香ちゃんはボートを漕いだことがないのだから、美代子が乗らないと言えばあきらめるしかないだろう。
「もう、美代子ちゃんなんか友達じゃない。いいもん、一人で漕ぐから」
 美代子の心を黒い予感が走った。だめ、美香ちゃんを一人で行かせちゃいけない。
 いけない。乗るな。姫は水に入って死んだのだ。同じことを繰り返さないで欲しい。お願いだ。
 長太郎の声が大きく響き、美代子はめまいがした。美香ちゃんを一人でボートに乗せて行かせることはできないでしょ。美代子は長太郎に言いたかった。
「だめ、一人じゃ危ないよ。浮き袋を取ってくるから待ってて。そしたら、一緒に乗るから」
「いや。美香は待ってるの嫌いだもの」
「じゃあ、一緒に浮き袋を取りに戻ろうよ。美香ちゃんも浮き袋を取って来た方がいいよ」
「そんなことしたら、お母さんに見つかって怒られちゃうよ。もういい。あたし一人で漕ぐから」
 そう言うと美香は危なっかしくオールを操り始めた。
「あ、待ってよ。あたしも乗る」
 お願いだ、乗らないでおくれ。水の上では何も出来ないのだ。あの時、水を呪ってしまったから。行かないでおくれ。
 美代子は頭の中に響く長太郎の声を無視して、ボートに乗り込んだ。
 ボートは川端の杭にロープでつないであったが、そのロープの結び方は投げやりでいい加減なものだった。盗まれようが、流されようがかまわないといった結び方で、子供でも簡単にほどくことが出来た。
 美代子が乗ると美香はすぐにはしゃぎだした。
「最初は、美香が漕ぐからね。美代子ちゃんは、その後だよ、いいよね」
 最初はバシャバシャと水を跳ね散らすばかりだったが、少しずつ水をかくようになり、ボートは徐々に川の中に進みはじめた。
「そうだ。向こう岸に行って来ようよ。行きは美香が漕ぐから、帰りは美代子ちゃんが漕いでね」
 美代子はボートに乗ったものの何も悪いことが起こらないので少し気が抜けた。長太郎の言葉もあり、また自分でも嫌な予感がしていたので、すぐに悪いことが起こるものと思い込んでいたが何も起こらなかった。
「美代子ちゃん、美香は疲れちゃった。交代して」
 川を半分も渡らないうちに、美香は交代を言い出した。しかたなく美代子は交代してボートを漕いだ。家族でボートに乗って少しだけ漕いだときと違って、続けて漕ぐのは大変だった。美香ちゃんが交代と言うのも無理はない。
「美代子ちゃん。流されてるよ。もっと、上に行かないと」
 ボートは今、橋の下にまで流されていた。その橋までしか美代子たちは行ったことがなかった。堤防沿いにずいぶん歩いてようやく到着した鉄橋だった。今、ボートはそこまで流されていた。
 美代子はあわててボートを漕いだ。もう、向こう岸などと言ってはいられない。元の岸の方にボートを向けなおし、一所懸命漕いだ。しかし、向きを変えるあいだにもボートは流されつづけ、慌てて漕ぐほど水しぶきをあげるばかりだった。そして、美代子の腕は重くなってオールを水の中に入れるのが難しくなり、水面を掻くばかりとなった。美香ちゃんも一緒に漕ぐと言い、二人で並んで本ずつオールを持ち漕ぐことにした。両手で一本のオールを持つので漕ぐのは楽になったが、二人の息があわずボートは蛇行した。
「長太郎!」
 美代子は長太郎に助けを求めた。美香ちゃんがお母さんに告げ口するかも知れないけれど、今はそんなことはどうでもよかった。
「長太郎、助けて」
 長太郎は姿を現さなかった。声も聞こえなかった。美香が泣き出した。
「長太郎!」
 美代子はもう一度呼んだが、何も変わらなかった。このままでは海まで流されてしまう。海はすぐ近くだ。長太郎はなぜ現れないのだろう。言うことを聞かずにボートに乗ってしまったからだろうか。海に出てしまったら助からない。美香ちゃんは泣きながらオールを動かしているが、水面をたたいているだけで役に立たない。
 美代子は立ち上がって岸に向かって助けを求めた。立ち上がるとボートは大きく揺れた。声が届かないのか、誰も答えてくれない。
「長太郎、助けて」
 美代子は泣き声になった。

 河口では砂利運搬船やタグボートが忙しなく行きかい、美代子たちはまもなく保護された。ボートから日焼けした腕で抱き上げられても、美代子は泣きやまなかった。泣き続ける美代子に、迎えに来た両親も叱ることを忘れた。美代子はこれまでほとんど泣いたことがなかったのだ。
 数日後、美代子はそっと長太郎の名を呼んだ。長太郎は現れなかった。

 美代子は中学校に入るころになると、幼い日の記憶はあやふやになって、本当に長太郎が存在したのか、空想遊びだったのか自分でも分からなくなってしまった。それよりも、クラブ活動やおしゃべりや男の子の方が気なるようになった。
 あこがれや失恋を経た後に、美代子はつまらない男とつまらない恋をした。それは美代子の学生時代が終わりに近づいたときのことだった。
 長太郎のことを思い出すこともあった。それは、男があまりにも下らないことで腹を立てた日だったり、逆に何もない静かな朝だったりした。

 時間が静かに流れて行き、友人たちの訃報を聞くことが多くなった。そして男が逝き、日々は静けさを増した。美代子も体の衰えを感じることが多くなり、その日の近づいているのが感じられた。
 持ち物の整理に時間を使うようになり、子供時代のアルバムや作文を読み返すことが多くなった。そして、長太郎のことを思い出した。思い出は途切れ途切れですべてを思い出すことはなかった。特に長太郎が現れなくなった最後の出来事は思い出さなかった。
 ある日、洗い物をしているときに、懐かしい気配を感じ、自然に声が出た。
「長太郎」
「お久しぶりで御座います。本日はお迎えに参りました」
「そう、私も死ぬのね」
 美代子は死ぬことに恐れを感じなかった。それより、死ぬ前に長太郎に会えたことがうれしかった。長太郎は少しも変わっていなかった。
「結婚をお願いしたいのです。許していただけるなら」
「こんなおばあちゃんに何を言っているの」
「わたしはあなたの何倍も年を取っていますよ。許していただけますか?」
「何を許すというの」
 長太郎は最後の思い出を語り、許しを求めた。美代子が溺れてしまうという予感が強すぎて、長太郎は逃げ出してしまったのだ。そして美代子が溺れたものと思い込んでいた。長太郎は予感が外れるということが考えられなかった。それから数十年間、長太郎はほとんど冬眠状態にいた。
「許していただけるなら、結婚して欲しいのです。結婚して、私とともに幽冥界の住人となって欲しいのです」
 美代子は伝統にしたがって返事を留保したが、数少ない友人に手紙を書き、必要な準備をした。
 数日後、美代子は長太郎の住む幽明界に移った。後には美代子の年老いた肉体が残された。

おわり

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