時間流刑

クリストファー・J・J・チャーノック著
井坂信平訳
由文社海外ノベルズ選書

 チャーノックの時間流刑がついに訳された。

 平凡な銀行員ディック・フェトルはある日、時間警察と名乗る制服の男たちに逮捕される。フェトルは時間警察など聞いたこともなく、逮捕される覚えもない。逮捕後フェトルはただちに流刑地に送られる。時間裁判は刑期中に出頭して行われ、無罪が確定すれば刑は取り消されるのだ。
 流刑地に転送されたフェトルはそこが地球そっくりの惑星であることに気付く。空には巨大な月が昇り、都市には蒸気機関車が走るその世界は流刑囚で溢れていた。あらゆる時代から集められた流刑囚の中には、アルバート・アインシュタインやスティーブン・ホーキング、アラン・チューリングやチャールス・バベッジの姿もあった。
 その上、フェトルと共に転送されたのは火星猫のメルルと異星人のカテナクシであった。

 こう書くとまるでディックであるが、チャーノックがディックと決定的に違う点はその明るさにある。もちろん、チャーノックはこの現実の技術文明など信じていない。だが、チャーノックが信じていないのはそれだけではない。人間の尊厳や平等といった近代的理想主義も信じていないのだ。
 チャーノックの作品がしばしばスペース・オペラと呼ばれるのもそのへんに理由があるのかもしれない。チャーノックは暴力を実に楽しそうに書くのである。正義も悪もない戦いはゲーム感覚とも評される。
 だが、1950年生まれのチャーノックはベトナム戦争を経験している。軍隊経験こそないものの、ハイスクールから大学にかけてのチャーノックの学生時代はアメリカがベトナムに介入した期間とほぼ重なる。そのチャーノックが単純にゲーム感覚の戦争を書くだろうか。
「やらなきゃならんことは楽しんでやれ」
 これはスーラミア人のカテナクシが地球人から教わったという言葉だ。戦争を避けられないことと考えれば、この言葉がチャーノックのゲーム感覚を説明していると思うのである。
 したがって、チャーノックの作品はアメリカ的諦観とでもいうべきものが見られる。SFではないがチャーノックの「ウルムルル」にはその諦観がよく現れているように思う。もちろん、我々の知る仏教的諦観とチャーノックのアメリカ的諦観は大きく違う。違うが、その違いがSFとしての、あるいは幻想小説としての面白さとなっているのである。
 そういう意味ではアメリカ人よりも日本人の方がよりチャーノックを楽しめるのではないかと思う。
 ただ、スペオペファンも怖れることはない。チャーノックは単純に読んでも面白いのである。宇宙船が太陽を突き抜ける場面の視覚的描写も素晴らしいが、その理論的裏付けも時間物スペオペとも呼ぶべき素晴らしさである。
 すっかり忘れていた時間裁判の結果が出るあたりからの展開は凄まじいとしか言いようがない。
 そして結末はなんとあの黄金のパターンである。まさか、これだけやった後にこの結末が来るとは思わなかった。もちろん、不満を持つ人もいると思うが、私はこの結末でよいと思う。
 チャーノックは作品の余韻なんてものは考えていないのだ。SFなんて読み捨てられるものであり、余韻が残っていては却って邪魔になると考えているに違いない。


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